ハーモニーさん

ずいぶんと前、縁あって沖縄で個展をやったことがある。
それは2週間ばかし続いたが、期間中はトイレや洗面所が共同の一泊数千円の安宿に連泊した。
冬場というので泊まり客は少なく、それもたいていはすぐに入れ替わったが、一月近くも滞在しているという男の人がいた。
二階の廊下の突き当たり、薄暗いとこにあるドアの向こう、隣の隣の部屋だ。

泊まり始めて2、3日経つと頻繁に顔をあわせるようになった。
こちらが洗面所に立つ度に、待ち構えていたかのようにすっとドアが開き、出てきて自分も歯を磨くのだ。
しかも驚いたことに、踊りながら。

板張りの狭い廊下、軽快なステップを踏んで歩き、ときに回転し、足を宙高くピンと上げる。
歯ブラシはずっと口にしたままだ。
ヨダレは垂れてない。飲み込んでいるのかな...あ、たまに思い出したかのように2、3回シュシュっと歯を磨いてる。

ものすごーく奇妙でめちゃくちゃにおかしい。
しかし、黒縁眼鏡の奥の瞳ときたら真剣そのものなので、笑うことなどできない。
滑稽さにその真剣さが打ち勝っている、つうか、滑稽さが真剣さでできているので、笑いが殺されてしまうのだ。
こりゃあ深沢七郎の小説みたいだぞと思った。

最初のうちは若干薄気味悪いということもあり、関わったりしたら面倒だと、見て見ぬ振りをしたり、または会釈だけして部屋へ逃げ帰っていた。
しかし、これが何回も続くとなると、さすがに声をかけずにはおれなくなった。

「あのう、ここにはもう長く滞在してらっしゃるんですか?」
それまで無表情だったのが花開くみたいにニッコリ笑って、
「ええ、ここにはピアノがありますから...」
たしかにその安宿には場違いな古いピアノがあった。

聞くところによると、歳は38、年上と思ってたら同年代だ。
音楽史や音響学、楽器やその演奏法、歌や舞踊、とにかくいろーんな音楽にまつわることを長年研究してきたらしい。
そして今はというと数年前からバーやクラブでピアノを弾いて生計をたてながら、あちこちを放浪し、自分の理想とする音楽を追求しているという。

「あのう...理想とする音楽って、いったいどんなもの...」
「ハーモニーです!」
「は、ハーモニー...」
「そうです、ハーモニー」

兎にも角にも音楽にはハーモニーが大切なんだそうだ。
何やら門外漢には難しい専門的な用語を並べながら延々と話し続ける。
内容はきれいさっぱり忘れてしまったが、随所にちりばめられた”ハーモニー”という言葉、
まるで取り憑かれたように繰り返し口をついて出てきたその言葉だけが、何かの呪文みたいに耳に強く残った。

知識も経験もとっても豊富そうで、大学に残って適当に研究したり、学生相手に教えてれば楽な生活だろうに...
折れたのをセロハンテープで補強した眼鏡をかけ、くたびれたトランク一つが道連れの安宿暮らし。

「いつも踊ってるのはなんですか?」
「タンゴです」
「はあ、タンゴですか...」
「ちょっと立ってみてください」
「え?は、はい...」
「じゃあ、基本のステップを教えましょう!」
と、やおら手を取る。
小さく柔らか、冷んやりしてる。

それから真夜中の廊下を行ったり来たり。
端っこまでくるとキユッと勇ましく回転、向きを変える。
幾度も繰り返す。
ハーモニーさんの口は固く閉じ大真面目。
たまたま泊まり合わせた素性もわからぬ男に教えながら、
自らも何かを学ぼうとしている様子だ。

それにしても折れたメガネに七三にきっちり撫で付けた髪、ぷりぷりしたお尻、見れば見るほどおかしい。
けれどもやっぱり、別にこらえてるわけではないのに笑うことができない。
彼が真剣そのもので、己が人生をかけて何かを求めようとしているその切実さがひしひしと伝わってくるからだ。

ふと気がつくと踊ってる自分とは別の自分が天井あたりにいた。
天井から眼下で生真面目に踊る七三と坊主の奇妙な男二人を見ている。

真冬の南の島、安宿二階の薄暗い廊下を行ったり来たりする滑稽のかたまり。