NANA SAUVAGE (野生の女)

奈良時代初期に編纂された「肥前風土記」によると、我が故郷、長崎県は佐世保市の早岐、針尾のあたりは、かつては速来(瀬戸の潮が速く来ることから)と呼ばれていたそうで、その付近一帯は速来津姫(ハヤキツヒメ)を長とする土蜘蛛一族の村であったそうだ。

”土蜘蛛”っていうのは能楽の演目や妖怪の名前として聞いたことある人がいるかもしれないけれど、『古事記』や『日本書紀』などの神話や伝説に登場する大和朝廷に服従しなかった辺境の民、いわゆる「化外(けがい)の民」の蔑称だ。
日本の各地に住んでいた先住民で、穴居生活をしていたことからこの名称が生まれたそうなんだけど、彼ら”土蜘蛛”たちは「まつろわぬ人々」として朝廷からすごくさげすまれた。
と、同時にすごく畏怖されていたんだそうだ。

風土記にこんな話がのっている。

時の景行天皇が九州各地の熊襲(くまそ)を征伐して宇佐浜の行営におられる時、たまたま速来村の土蜘蛛が乱を起こした。
天皇はさっそく陪従の神代直(かみしろのあたい)をつかわして、これを討たしめられた。

土蜘蛛の本拠速来で、女酋速来津姫を捕らえた直(あたい)は、姫から建津三間という男が美しい玉を持っていることを聞いて、これを建村の里(今の早岐付近の土地と思われる)に襲った。しかし三間は隙を見て逃げ出したので、直は時を措かずすぐにこれを追いかけた。

そして遂に石山嶺(今の九十九島湾岸の石岳)で捕らえ、二つの玉を奪った。なおこの時、直は三間から篦梁(の梁)という酋長も美玉を持っていることを聞いたので、ただちに川岸の村にこれを襲い、その玉をまた手に入れた。

こうして三つの玉を手に入れた直は、意気揚々として凱旋、これらを天皇に献じた。

この”玉”っていうのはおそらく、現在も当地の名産品である真珠だと思われるけど、それにしても美しい玉を持ってるからって、何にもしてないのにそれを襲って有無を言わさず力づくで奪うって、ひどい話だぞ。

さて、この土蜘蛛、最近読んだ文章の中にも出てきて、ちょっと嬉しかった。
大正時代の社会主義者である堺利彦が自身の故郷、大分は豊津について書いたものだ。

「自ら称して『土蜘蛛の子孫』といふ。そこに先ず、私としての、多少の誇りがある。(中略)私は九州人である。九州は大和民族発祥の地たること勿論だが、同時に又、隼人の国でもあり、熊襲の国でもある。殊に九州の中、私の生まれ故郷なる豊前の国は、土蜘蛛の国としてもまた有名である。(中略)由来この豊津辺は、歴史を通じて支配力の中心地であった。反対に又、土蜘蛛、熊襲等の立場からすれば、反抗力の中心地でもあった。」(『中央公論』1930年12月号)

堺は色紙に揮毫を頼まれると「土蜘蛛の子孫」と書いていたんだそうだ。

ところで、自分の生まれ故郷にまつわる古い話を最初にしてくれたのは、中学校の先生でちょっとした郷土史家でもあった母方の伯父である。
彼によると、我らが祖先を辿っていくと松浦党(西海地方を荒らしまわっていた海賊まがいの弱小武士団)に行き着いたということだった。

さらに、古代人の人骨の研究をしている友達に言わせると「アジサカさんの頭蓋骨はまさしく”縄文人”の形」だそうなので、以上のことを踏まえるならば、わが祖先は ”竪穴住居に住んでたけどのちに海に出て海賊になった土蜘蛛”ってことに間違いなさそうだ。

だとしたら 、どういうわけか幼い頃から、強大なもの、偉そうに権威をひけらかしてるような人たち、が大っ嫌いだった理由もおのずと推測される。つまりは、太古のむかし、持ってた美しい玉をそいつらに奪われちまったからだ。

なので、毎日飽きもせず絵を描いているのは、というか描かずにはおれないのは、きっとそれが子孫に課せられた、美しい玉を取り返す作業だからなんだろう。

そして、そんな血潮の流れた手が描く女の子は、きっとご先祖様の酋長である速来津姫(ハヤキツヒメ)に、どことなく似ているに違いない。

と、そんな女性たちのポートレートがずらりと並んだ個展が、来月から始まります。

お気が向いたら、どうぞふらりとお越しください。

アジサカコウジ春個展2022
「NANA SAUVAGE#3」

日程:2022年5月14日(土)~6月5日(日)
( 会期中の金、土、日)
時間:13:00-19:00
場所:List:(リスト)
長崎市出島町10-15 日新ビル202
TEL :080-1773-0416