合唱

二十代の終わり頃はフランスに住んでいて、観光ガイドや家庭教師、皿洗いなんかの他、セレクトショップのバイヤーの真似事みたいなこともやっていた。
毎年2月のこの時期になるとパリではプレタポルテのサロンが開かれる。
でっかい球場みたいな広さのホールに数百のブランドのブースがひしめいていて、それらを一つずつ見て回り、これはと思うものを注文するのだ。

えもいわれぬ美しい柄のシャツに、びっくりするくらいなめらかな羊皮のコート、こんなん誰が着るんやぁと思わずつぶやく男物極小下着...どのメーカーも服作りにこだわっていて見ていて飽きない。

その年は湾岸戦争の翌年であり、地球の温暖化が人々の口の端に登りはじめた頃でもあったので、エコロジーを大きく掲げたり、平和や愛をテーマにしたTシャツなんかをつくってるとこが少なからずあって、どこもたいそう賑わっていた。

さて、そんなサロン初日の帰り、日本から出向してきた人々をシャンゼリゼのホテルまで送って行った後、パリを横切る2番線のメトロに乗った。
帰り際に目にとまったシルクのシャツのブランドのことなどを考えていると、ピガールにきたところで、どんな人種かわからないほどしわくちゃで酒焼けした男が、まるで象の肌のようなコートをずるずるひきずって乗り込んで来た。
ボックス席にずさっと座ると、酒と煙草でつぶれた声で何か低く叫びはじめる。
「L’amour,l’amour,avoir l’amour…(愛だ、愛が必要だ)」とくり返している。

けっこう混んでたんだけど、強い臭いを放つ彼の周りには人が寄らず、誰もが知らぬふり。
自分はというと、相変わらずさっきのシャツのことを考えていた。

さて地下鉄が次の駅に着くと、とっても長いスカートをはいた十四、五歳くらいの女の子が入ってきた。
真冬だというのに素足に破れた草履をつっかけている。

入るなり彼女は、しわがれ声で愛を叫ぶ男を見た。
見たけど、男にはかまわずよく通る大きな声で乗客に、父親が蒸発し、病気の母がいることを告げると、すぐさま静かに、少し投げやりな感じで故郷のものだという唄をうたいはじめた。

一方、彼女がそうしている間にも、例の男はずっと叫び続けていたのだけれど、彼女が歌い始めると、そのよく響く声に負けぬようにと、次第に” L’amour”という叫びを大きくしていった。
女の子の声がかき消されそうになる。

すると何を思ったか、女の子も男に負けじと、音程などかまわずあらん限りの声をはりあげはじめた。
うわ...
2人の強くて異質な声が激しく混じり合う。
「愛だ!愛だ!」という浮浪者の叫びと、ジプシー女の歌が一体化する。竜巻となってうねり、狭い車両に荒れ狂う。
他の客はどうだか知らないが、こちとらは身体が無性に熱くなり、彼らの歌の中に溶け混んでいってしまいそうになる。
うわわわ...

と、いきなり冷たい空気が車内に流れ込み、強い光が差しこんできた。
メトロがTATI(安売り服屋)の前、地下から地上に出たからだ。

はっと我に帰っていると、間もなくキキィとうなって、次の駅バルベスに着いた。

女の子は突然唄をやめると、何も乞わずに車両を飛び出す。
男はと見ると、まだ低く” L’amour,l’amour”と叫び続けていたんだけど、二駅過ぎたくらいで深く寝入ってしまった...

それからずっと、プレタのサロンが終わるまで、彼らの歌が両の耳にこびりついて離れなかった。

今も、毎年この時期になると必ず思い出す。
そして身体が少しあたたまる。