田舎の小さなバス会社に勤めていた父は、仕事で観光地を訪れるたび、小さな置き物をお土産に買ってきた。
それを応接間の飾り棚に並べ、洋物のウイスキーかなんかを飲みながら眺めていた。
物心ついた時にはすでにちょっとしたコレクションになっていたように思う。
その中に、太い枝をぶった切って皮剥いで、でかい目玉と鼻口描いて着物をきせた小さなこけしがあった。
高崎山の猿や京都の舞妓さん、どこかの温泉宿の番頭さんや、長崎の平和祈念像なんかの陰にひっそりと佇んでいた。
ひっそりと佇んでいたんだけど、小粒ながらも何となくふんぞり返ってて、妙な風格があった。
「誰だ、こいつは...」
ある日尋ねると父は「なんやお前、知らんとか、西郷さんってとっても偉か人ぞ」と言った。
「そうかとても偉い人なのか...」
幼稚園の年中組くらいだったろうが、なんでかよく覚えてる。
それから長ずるにつれ幾度となく、歴史の授業やテレビの時代劇なんかに登場しては、「~でごわす」とか言っていばっているので、なるほど偉い人だというのは実感できた。
勝や大久保、高杉や坂本と同じく明治維新の立役者の一人だ。
ところが、高校時代にたまたま手にした内村鑑三の「代表的日本人」の中に出てくる西郷に触れて、「あれ、この人はそんじょそこらの偉い人やないな...」と感じるようになった。
”そんじょそこら”でないのなら、キリストやお釈迦さまみたいに、ものすごーくめちゃめちゃ偉い人なのか、というとそんなことではなく、「他でもなく、”この自分にとって”、偉い人」なのではないかと思うようになった。
直感で、この人は自分の人生にとって役に立つに違いないと思った。
それで大学入って暇ができると、西郷関連の本を次々に読むんだけど、勝や坂本なんかと一緒に幕末の晴れ舞台に上がって活躍してる姿っていうのにはどういうわけかあんまし興味を惹かれなかった。
惹かれたのはどちらかというと晴れ舞台からは遠く離れた場所、例えば流された南の島の地べたに座って悶々としてるような姿。言い換えるなら、”日本の夜明け”とは真逆の方向、暗くて深い闇に向かって独りてくてく歩いてゆく肥大漢の姿だった。
しかしこの闇、近代文明の恩恵に与かっておらぬという意味では闇かもしれないが、近代文明に毒されていないという意味では光だ。
西郷は近代以前、つうかもっと昔の太古の光に向かって歩んでいったという気がした。
西郷関連の本の中でもひときわ印象深い本に橋川文三の「西郷隆盛紀行」というのがある。
その中での、橋川と奄美在住の作家・島尾敏雄の対談。
(訳あって潜居を命ぜられた西郷は、奄美大島に3年ほど暮らした)
島尾「ぼくはまあ、西郷はやりませんけど、西郷を書くとしたら、西郷と島の問題をやります。彼が島から受けた開眼というか、島でなにをみたか、ということですね。もう明らかに、本土とは違うんですから。生活、風習、言葉...すべてがね。西郷はそこから、きっとなにかを学んでいると思います。」
橋川「ぼくはまだ、デッサン以前の段階なんですけど、わかりそうなのは、こういうことです。西郷が島からなにを学んだか、なにをみたか、ということは、西郷が他の維新の連中と、違うことでわかるんです。それでは、西郷をして、他の連中と異ならしめたものはなにか。それはいまのところ、ぼくには規定ができない。例えば内村鑑三の場合は、西郷はなにかをみたに違いない、そういうある確信をもって、西郷論を書いている。内村がプロットとしたもの、そのあたりのへんが、解けてくるんです。内村鑑三と西郷を結びつけるという、意味ではなくてね。つまり、西郷がしまでみたものは、日本の政治家が昔から、そして、いまもなお、みなかったものなんです。」
島尾「そうです。みなかった。」
さて、唐突だけど、この二人が言うところの西郷が”みたもの”というのは、漫画家の水木しげるが出征地であるニューブリテン島で”みたもの”と同じなのではないかという気がする。
水木は絵心があったので、帰還後漫画家となり、それを妖怪として我らの前に差し出した。
西郷には絵心はないけれど人望とかそんなのがあったので、それに敬天愛人という名を与え懐にしまい、兵を挙げた...
それでは、彼らが”みたもの”って一体何やねん?
ということになるけれど、手前勝手に言うのなら、それは古代人の心性、彼らの習俗や世界観・他界感みたいなものなのではないかという気がする。
西郷の場合は、一言で言うなら”縄文的な世界”というべきものに目を開かされたのではあるまいか。
縄文的な世界とは「縄文の思想」を著した瀬川拓郎によれば「”土俗的”な自由・自治・平和・平等に彩られた世界」であり、それは今もなお、日本列島周縁の海民、アイヌ、南島の人々のなかに生き残っているという。
ジャン・ジャック・ルソーが「自然に還れ」というところの”自然”、マルクスが「完成した自然主義として人間主義であり、完成した人間主義として自然主義である」というところの”自然”、そんな”自然”に近い世界だ。
彼らはそのような世界を夢に見、理想とし、なんとかそれに近ずこうとしながら生きたという気がする。
と、まあ御託を並べてきたわけだけど、実は余計なことだ。
西郷という芳醇な果実があるとして、物書きならば、それがどんな種類でどんな歯応えでどんな味でどんな栄養があるかなんてのを説明するのだろうけれど、絵描きはなにも考えずにがぶりと一口食べるだけだ。
がぶりと食べて”うまいっ”と筆に言わせる。
だから、今回の個展の一連の作品は西郷という人間を喰らって腹を満たして出したウンチみたいなものだ。
消化が良いのかどんどん出てきて、いま現在も出続けている。
ウンチなのでコンセプトだとかメッセージだとかは特にない。
人によっては悪臭放つ汚物かもしれないし、人によっては何かの肥やしになるかもしれない。
どこかの誰かの肥やしになるといいのだけれど。
アジサカコウジ冬個展 2021
西郷さんシリーズ
「南の島からの反逆者」
会期:2021年12月4日(土)~12月26日(日)
休日:月・火曜日
時間:13:00-19:00
場所:EUREKA 福岡市中央区大手門2-9-30-201
TEL :092-406-4555
※期間中毎週土・日曜はアジサカが在廊しております