ギマタサン

大学卒業してしばらく塾の先生などをして食いつなぎながら教員目指して試験勉強してたらフランス人留学生と仲良くなって、彼女を頼りにパリに住み始めることになった。

地元長崎の高校教師になるのだと期待していた両親は阿修羅のごとくに怒った。
パリと長崎は何千里も離れてるのに、阿修羅の手がびょーんと伸びてきて腕や首筋に絡んでくるみたいだった。
日本的な情愛っていうやつは、こういう時はしんどいなあ...もっとさっぱりといかんもんかいな...とつくづく思った。(今では親不孝ものだったとちょっぴり反省)

さて、パリに住むったって、この国の言葉はちんぷんかんぷん。懐寂しくちゃんとした学校行くのは当面無理なので、同市が移民向けに町の公民館みたいなとこで開講しているフランス語講座に通うことにした。
北はロシアやブルガリア、南はアルゼンチンやマリ、いろんなとこからやってきたいろんな歳の連中が20人ばかりいた。

ギマタサンというパキスタンの青年と仲良くなった。当時24歳の自分から見てもずいぶんと幼い印象で、二十歳そこそこみたいな感じだった。
”英語は話さない”ことになっていたので、ごくごくわずかのフランス語の単語を並べて会話、つうか、「おれ、おまえに好意を持ってるぜ」という合図のやりとりを授業の前後なんかにやっていた。
「salut(よお!)」「ça va?(元気?)」「oui,ça va(うん、元気)」「fais chaud ,hein?(暑いよなあ)」「oui,très chaud(うん、めちゃ暑い)」
こんな、挨拶に毛が生えた程度の言葉のやりとりを、延々と繰り返しながら笑い合い、腕や肩なんかを突っつき合うのだ。

ある日のこと彼が自分を指差し「ギマタサン、ジャポネジャポネ...」と言いながらボールペンとノートを差し出した。
それで、”ギマタサン”と片仮名でノートの端っこに書いた。
しげしげと見ながら「c’est beau,c’est beau(美しい、美しい)」と言ってえらく喜んだ。
そしてしばらくすると今度は右腕を差し出して「ここにも書け」と催促するので、手首の上にも”ギマタサン”と書いた。

次の週に会うと、それはそのまま刺青になっていた。
彫り物上手なおじさんに頼み、カナ文字をなぞって刻んでもらったらしい。

彼は空港のレストランで働いていた。
数年稼いだら国へ帰るのだと言った。
「帰って何するのか」と聞いたら、眉根にシワよせたままニヤリ笑って「バババババ...」と機関銃を撃つ真似をした。
志願兵となって国のために戦うのだという。

彼とは教室以外で会うことはなかった。
なんでだろう...
互いに食うための仕事でいそがしかったのか...
それとも、言葉のうまく通じる同胞らとつるんでた方が楽だったのか...

数ヶ月が過ぎ、クラスが解散することになったけど連絡先など聞くこともなかった。
(スマホがある時代だったら違ってかもしれんけど...)

ただ、最後の授業の時、小さな革の財布をくれた。
小銭が数枚しか入らないような薄っぺらなやつで、なぜだか今も捨てずに持っている。
(上の写真)

”ギマタサン”と刻まれた腕、
あの後どうなったのかな...とたまに思う。

童貞みたいだったけど、じきに女の人を抱いただろう...
戦地へ行き人を殺したかな...

今頃、好きな人の髪を撫でてりゃいいな...

 

ということで今回の曲、歌うはパキスタンの国民的歌手ヌスラット。
いつ聴いてもすごいぞ。

「Mustt Mustt 」Nusrat Fateh Ali Khan